斯波氏は、朝倉孝景と織田某、
細川氏は、三好長慶に下克上されたみたいけど、
畠山氏は、誰にやられたの?
下らん内紛で自滅していった無能共という印象しかないが
内紛の後も結構頑張ってね?
斯波義達、細川晴元、畠山高政とか。
細川京兆→三春藩家老
斯波武衛→加賀藩家老
畠山金伍→高家旗本
つーか足利とほぼ同格と言われた斯波でさえ家老だろ?w
1/6殿に至っては高家の低い方でしか無い。
足利一族は無能一族の見本みたいなもんw 悪いがw
>>13
戦国時代1世紀半を先頭争いを生き抜いた一族は、
蜂須賀、黒田、山内、中村みたいな
最後の数十年だけで美味しいとこ持っていった一族より、
凄いと思うんだけどどうかな。
>>15
幽斎はなんか細川一族とは認めたくないよね。
三淵だか長岡だかで十分だ。 蜂須賀小六「オラも足利一族なんだが」柴田「ワシもワシも」
管領家からの遠さは和泉細川、二本松畠山とたいして変わらんか
>>20
何の遠さ?
和泉細川氏、二本松畠山氏って誰か大名になったの?
よくわからない。 管領の河内守護畠山家は、しぶとかったほうじゃないの?
ほかの守護家が下克上でバタバタ潰れていく中、織田信長にも豊臣秀吉にも抗って。
たしか三河時代の徳川家康ともよしみを通じて秀吉に対抗したはずだ。
さらに紀伊に移って、地侍らの傀儡かもしれないけれど一定の存在感をしめした。
江戸時代の高家になったなんて凄いじゃない(それほどでもないか・・・)。
室町の守護大名で近世大名になった家の方が奇跡だよ。
熊本の細川は、途中に戦国大名長岡氏を名乗ってたし違うし、だいたい忠興の継いだ
細川は、どっかの国(和泉)の守護じゃないからね(細川は細川でも)。
鹿児島の島津も、室町の守護大名の島津じゃないし、郡代程度の勢力(家柄)の伊作氏
が、島津氏に、無理やり実子を養子に送り込んで継いだものだし(その養子縁組も・・
白紙にもどされているから、守護の島津氏ですらない)。
まだ、米沢の上杉のほうが、(長尾からの)正しい養子継承なくらいだ。
京極がいるじゃないか。ほんとに京極嫡流か怪しいらしいがw
あと信濃守護小笠原家
佐竹もいるぞ。常陸守護かどうか解らないが。
結城(松平)も。下野守護かどうか解らないが。
毛利も或る意味守護だしな・・。
京兆家は、政元に直系男子が居れば、かなり違う。
あそこまで、内紛に次ぐ内紛にもならなかったと思う。
京兆家が落着けば、畿内の政局もカナリ大人しくなる。
それを言うなら、足利義尚に男子がいたら明応の政変すら起こらなかっただろうしなあ
やっぱり斯波家が速攻で無力化したのが痛い。
西の細川三好勢力を牽制できたのが六角だけって言うのがな。
六角定頼が将軍保護して、和睦交渉斡旋って流れだからなあ。
そこに斯波氏が東側のボスとして六角を後援して牽制してれば。
だいたい朝倉を守護同様の権威を認めてしまった為にに斯波氏は織田氏にまでナメられるようになっちまったしな。
北陸の畠山なんかも若狭武田や朝倉と一緒に上洛してた時期もあったが一向宗が猛威になってきたしな。
でも三好軍もせいぜい大津くらいまでしか進出してこない事から、
彼らの来援の可能性は近江での活動への抑止力になったんだろ。
土岐?吉良?役立たず過ぎてワロス
斯波は領地が遠い、しかもそれぞれが離れすぎた
山名みたいにまとまった領土だったらな
山名はまとまってたせいで逆に速攻で弱体化したような
>>32
京兆家は、畿内にまとまった領国だったが、
晴元時代の16世紀中旬まで、何とか持ったよ。
>>28が言う様に政元に跡継ぎが居れば、
京兆家はモット続いたし、政元だって長生き出来たかも。
京兆家の四国の領国は、早い段階で放棄している。 畠山氏に詳しい方、教えてください。
守護家ではなく、将軍家近習の畠山播磨守家の出自が分かりません。
畠山教元の系図上の位置が知りたいです、Wikiにも載ってませんでした。
>>34
www10.atpages.jp/nyahoto/keizu/hatakeyama.htm
義純(畠山氏)━━ 泰国 ━ 時国 ━ 貞国 ━ 家国 ━ 義煕 ━ 満基 ━ 教元 ━ 政元
この系統の人であってますかね?
他はわかりません。 ありがとうございます
あと、細川氏や畠山氏と縁のふかい佐々木六角氏の末裔は
江戸幕府の旗本になった家が嫡流でしょうか、加賀藩士になった家が嫡流でしょうか?
教えてください。
>>36
加賀藩士となった六角義治の婿養子・定治流も、義治の弟で幕府旗本になった義定流も
両方嫡流を主張していた。正直はっきりしない。 ありがとうございます
六角定治は、どのような経緯で前田家に仕えたのでしょうか?
徳川将軍家に仕えていたならば両畠山家同様高家に選ばれるべき家柄でしょうに
>>38
よくわからん。元々、旧家臣筋の蒲生に仕えて、蒲生改易の時に前田に使えたとか。
あと旗本六角(佐々木)氏は曾孫の代に無嗣断絶してる。 斯波の失敗は加賀斯波家が長く続かなくて加賀を領国化できなこったこと
細川にとっての阿波細川、畠山にとっての能登畠山のような存在があれば
斯波氏、朝倉氏(越前)と織田氏(尾張)が台頭
細川氏、分裂(阿波と畿内)後、三好氏(阿波)が台頭
畠山氏、分裂(上河内と紀伊・下河内)後、木沢氏(上河内)と遊佐氏(下河内)が台頭
赤松氏、山名氏と争った後、浦上氏(備前)、別所氏(東播)、小寺氏(西播)が台頭
一色氏、守護(丹後)の座を若狭武田氏に狙われ、衰退。
京極氏、同族の六角氏(南近江)に佐々木家筆頭の地位を奪われた後、浅井氏(北近江)が台頭。
山名氏、赤松氏と争った後、織田氏に滅ぼされる。
三管領四職の戦国時代は、こんな感じ?
遊佐信教って天正2年に死んだことになってるけど、
高屋城の落城が天正3年なのになにが起きて1年も前に死んでるんだろう?
あと元亀4年6月に畠山昭高を暗殺してるけど、元亀2年5月、安見宗房が松永久秀の調略により自刃、
元亀3年1月、信教による昭高暗殺未遂、元亀3年5月、松永久秀による畠山攻めを考えると、
いくらなんでもタイミング変じゃね?
畠山昭高暗殺は元亀3年、
遊佐信教の戦死は天正2年の方が妥当に思えるけど、
どの史料が死亡年の根拠になっているのか。
戎光祥出版「管領斯波氏」が刊行。ついに斯波がメインとなる本が出たのか。
>>46
アマゾンで買おうかと思ったら在庫切れだったわ
つーか高すぎだろ・・・ 斯波の本は立ち読みしてきた。
旧来の論文も幾つか収録されてるけど、比較的新しい論文も結構収録されてて興味深かかった。
>>42
斯波氏以外は織田の家臣として3000〜10000石くらいの領地もらって生き残ってるよ
但馬では山名氏政(六分一殿嫡流末裔)という人が
近江では京極高次という人が
播磨では赤松則房という人が
丹後では一色満信という人が
丹波では細川昭元(信長義弟の京兆家末裔)という人が
河内では畠山昭高という人が <将軍> <実力者> <地方公方・御所>
三国同盟 --【傀儡】-- 足利義氏(氏康の甥)
↑ ↑
【対立】 【対立】
↓ ↓
足利義輝 --【推戴】-- 関東管領 --【擁立】-- 足利藤氏
|↑↑↑ (憲政・謙信)
||||
||||
||| --【傀儡】--- 細川晴元・細川持隆
||| | |
||| 【傀儡】 【擁立】
||| | |
||| | -----------
||| | |
|| -----【傀儡】---- 三好氏 --【擁立】-- 足利義維・足利義栄
|| | |
| -------【義栄を新将軍として擁立】----------
|
|
| 朝倉義景 --【家臣化】--足利嗣知
| |
↓ 【讒訴】
足利義昭 --【傀儡】-- 織田信長 |
--【擁立】-- 明智光秀 --------------
>>49
織田の時代は山名氏政じゃなくて兄の山名義親が当主じゃないの。
豊臣の時代が山名氏政だと思う。
秀頼の時代が山名堯政。
徳川の時代が山名煕政。 但馬の山名氏って滅んだのではなく続いてたんだね
山名氏政は信長傘下の戦国大名で、後に秀吉の家来に
なっていったらしい
江戸時代初期の家康の時代は山名堯政という人物が山名氏嫡流という
ことになるね
今川家も侍所長官家(四職家)に加えてもよいとおもうんだけど。
>>49
畠山昭高は暗殺されて滅んでるんじゃない?>>43-45
>>50
細川晴元は傀儡じゃない
足利義栄の位置がおかしい
足利義栄と足利義昭の対立が抜けている >>53
今川家は足利一族のなかでも高い地位だから、家来がやるような職には就かないんだと。 管領と直接関係はないかもしれませんが、斯波氏がいつから「しば、しわ」と
故障されるようになったのか、ご教示下さい。
Wikiによれば、「斯波」という記載の初出は応永29年(1422)だそうですが、斯波家長は建武4年(1337年)に志和尾張弥三郎と呼ばれています。
巷間よく聞くことは、斯波氏は家格が高く特に鎌倉時代は「足利」であったため、
その後も「斯波」と呼ばれることを好まなかったという話です。
確かに、北条貞時十三回忌供養では、参列者に「足利孫三郎」がいて、これは
斯波高経のことです。
私がお聞きしたいのは、鎌倉末期から南北朝での十数年間のうちに、「足利から志和」への変化が起こったのか?といことです。
それとも、少なくとも南北朝の初期はあくまで「足利」志和尾張弥三郎であったのか?
まとまりのない文章で申し訳ありません。何かご教示下さると幸いです。
そんな質問ここじゃとても無理だわw斯波氏の子孫を探し出して聞けよ。
たぶん当時の斯波本家(武衛家)は、自分たちを「斯波家」という家だとは思っていないと思う。
自分たちはあくまでも「武衛家」であって、「斯波」というのは武衛家や大崎・最上ら一門全体を指す呼称。むしろ嫡流じゃない連中が「斯波」を名乗っている例が多い。
武衛家の当主は安土桃山時代に至るまで武衛と呼称されるのがほとんど。
>>66さま
65です。最近チェックしていなくて返信が遅れました。
ご教示、ありがとうございました。
おっしゃる通り、斯波惣領家は自分たちを「斯波」だとは思っていなかったようです。
応仁の乱後、義敏が書いたとされる斯波家譜の中で「斯波郡を知行したから(その一門の者は)斯波と言う」と
書いています。
つまり、義敏は惣領家(養子ですが)の自分と、斯波郡に関係している斯波家の者とは別だと考えているようです。
「武衛」は本来官職由来で、苗字とは言えないのでしょうが、室町時代の武家では「斯波惣領家という特定の家」を指す
言葉であり、苗字的な使われ方を自他ともにしていたというように理解しました。
私の疑問であった家長の呼称である「志和尾張弥三郎殿」は、家長が奥州総大将として一時期志和に拠点を置いた
ことを考えれば、納得できます。 尊氏が将軍になったからさすがに足利を名乗るのは憚られたんじゃね?
>>69さま
64ですが、これは斯波家が室町時代に足利を名乗れなくなったことを書かれたのでしょうか?
それなら、おっしゃる通りです。
鎌倉時代は、足利であった一門も足利は名乗れなくなり、
上総家は吉良氏に、尾張家は斯波氏に変わっています。
この話は、いろいろな所(本)で目にはするのですが、
「いつ?」「どんな形で?」通達されたのかについては、勉強不足で知りません。 >>68さま
元勝の生年は、どの記録に基づくものでしょうか?
1561年は桶狭間の翌年であり、お犬の方は最初の結婚をしていたかどうかもあやしい年齢です。 質問は控えます。
管領家、特に斯波氏について、色々知りたいだけなのです。
古い書籍は結構持っています。なかなかそれ以上のことがわかりません。
近年出版された木下氏編集の本も購入しましたが、あまりプラスはありませんでした。
2011年度 東京大学入試問題
室町幕府と守護
【2】つぎの表は、室町幕府が最も安定していた4代将軍足利義持の時期(1422年)における、鎌倉府の管轄および九州をのぞいた諸国の守護について、氏ごとにまとめたものである。この表を参考に、下の(1)・(2)の文章を読んで、下記の設問A〜Cに答えなさい。
(1) 南北朝の動乱がおさまったのち、応仁の乱まで、この表の諸国の守護は、原則として在京を義務づけられ、その一部は、幕府の運営や重要な政務の決定に参画した。一方、今川・上杉・大内の各氏は、在京を免除されることも多かった。
(2) かつて幕府に反抗したこともあった大内氏は、この表の時期、弱体化していた九州探題渋川氏にかわって、九州の安定に貢献することを幕府から期待される存在になっていた。
設問
A 幕府の運営や重要な政務の決定に参画した守護には、どのような共通点がみられるか。中央における職制上の地位にもふれながら、2行以内で述べなさい。
B 今川・上杉・大内の各氏が、在京を免除されることが多かったのはなぜか。2行以内で説明しなさい。
C 義持の時期における安定は、足利義満の守護に対する施策によって準備された面がある。その施策の内容を、1行以内で述べなさい。
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/02entrance_examination/todai/2011tokyo_univ2.html 細川奥州家って、本拠というかメインの所領ってどこ?